空を飛ぶ夢
高所恐怖症の浮沈子が、空を飛びたいというのは、いささか矛盾している。
何年か前に、調布飛行場から体験操縦で飛び立ったことがある。
パイロットは、高度が高くなれば怖くなくなりますとか言っていたが、そんなことはない。
バンクした時に、真下の地上が見えた際には、大事なところがキュッと縮まるのを感じた(男の子だけ、分かってください!)。
空を飛ぶことを諦めたわけではない。
自分のコントロールで、自在に3次元のシュプールを描くのは、長年の夢であり、ダイビングに傾倒している理由の一つである。
スクーバの発明者の一人であるクストーも、空への憧れを抱いた一人であったようだ。
(第27回 アクアラングを発明したジャック・イブ・クストーを支援)
[URL]
「アクアラングがあれば、何の害もなくのんびりと何ファゾム(注:水深の単位)も下の海中を滑空することができる。フィンをつけた足をプロペラ代わりにうつぶせのまま泳いだり、ひっくり返ったり、横向きに寝そべって浮かんでいることもできる」
「アクアラングでスクーバダイビングをするようになってから、クストーは空を飛ぶ夢を見なくなりました。」
まあ、記事自体は、そんなクストーを支援したナショジオの手前味噌な話なので、かなり割り引いて読んだ。
自動車事故でパイロットとしてのキャリアを諦めざるを得なかった彼が、アクアラングを開発したというのは、何か因縁めいたものを感じる。
空と海。
浮遊と滑空。
人間にとっては、適わぬ能力であり、いってみれば超能力である。
もちろん、陸上での高速移動も同じだ。
身体能力の拡張、神の視座の獲得である。
別世界ということでいえば、顕微鏡や望遠鏡なんかも、そういう類に入るかもしれない。
携帯電話(スマホでもいいんですが)、インターネット、衛星生中継(古っ!)。
感覚器官の拡張だな。
電卓などは、脳の機能の外部化、高度化に当たるかもしれない。
その成れの果ては、量子コンピューターということなのかあ?。
記憶力という点では、パピルスや書物に始まって、今やエクサバイト級のメモリーが唸りを上げている。
外部化された機能が、如何にすさまじくなっても、生身の人間が感得できる経験というのは、あまり変わっていない。
千年前の人間と、我々とでは、むしろ、感覚器官などは衰えているのではないか。
肥大化したのは、脳そのものではなく、外部の能力であろう。
バーチャルな経験が、アバターなどでリアリティを増す一方、生身の人間は、相変わらず鳥のように空を飛びたいと思っている。
水中では、魚のように自由に泳ぎ回り、地上では、チーターのように速く走りたいのだ。
なぜなんだ?。
動物は、移動能力を得ることで、生存戦略を拡張してきた。
捕食や環境への適応、繁殖における多様性の確保も、移動能力に依存している。
動く範囲の拡張というのは、動物にとっては生存に欠くべからざることであり、スポーツ選手がモテるのは、理に適っている。
CCRダイバーがモテるという話は聞かないがな。
まあいい。
行動範囲を拡張し続けた人類は、宇宙空間に活動の場を広げてきた。
乗り物に乗ってではあるが、もはや、地球上では収まらなくなってきている。
月や火星といった、他の天体における生活も視野に入ってきた。
空を飛ぶという、直感的に理解できる憧憬とは、いささか乖離が大きいけどな。
水中を舞うというのは、その代償行為になり得るんだろうか?。
まあ、どうでもいいんですが。
空を飛びたい。
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