2016-10-26
「ポルシェはまだまだ小さなチームです。シャシー開発者などは、モデルごとにポルシェの運転感覚はどうあるべきなのかを知っていて、それが911からパナメーラやカイエンなどへと移植できているというわけです。」
乗って、タイヤの一転がりで、それは分かる。
この記事の開発者は、それは幾何学的配置だというが、そうではない(だから、教えてくれたのかも)。
この間、エボリューションとSF2を同時に試した時も、そのことを感じた。
質感の違いだ。
何かの妥協が、それが小さなものであっても、積み重なって、他と影響しあって、隠し切れない瑕疵となって現れるのだ。
そうならないためには、一点の妥協も許されない。
少なくとも、走りに関するところには、それを認めない。
走りの滑らかさを損なうザラツキ感、あるところから急激に変わるフィーリング、操っているときに感じる不安感・・・。
乗れば分かる。
目の玉飛び出るようなスピードでなくても、それは感じられる。
妥協に妥協を重ね、自動車「のようなもの」を作り続けたメーカーのクルマにはない、ホンモノの匂いがする。
完全な剛体でない限り、ボディは撓み、振動している。
それは、ポルシェだろうが、それ以外のメーカーだろうが同じだ。
それを、どこまで許容し、どう対策するのか。
もっといえば、いくら金掛けるのか。
そこでつぎ込んだコストで、どれだけの顧客を失い、どれだけの儲けが吹っ飛ぶのか。
それでもやるのか。
それとも妥協するのか。
自動車を、金儲けの道具としか思わない思想からは、ホンモノの質感は生まれない。
同じ4つの車輪を持った乗り物でも、似て非なるものが生まれる。
浮沈子は、500Eを下から覗いた画像を見た時、これは本物だと感じた。
二度と作られることはないだろう堅牢なシャシー。
リアのサブフレームの、ゴッツいこと・・・。
真実の世界だ。
宣伝文句や、上っ面のビジュアルではなく、最近流行りのインフォテインメントのカケラもない、ウソ偽りのない世界がそこにある。
20年乗れば、違いが分かる。
塗装は剥げ、内装はボロボロになっても、しっかりと動き、しっかりと走る。
50年乗れば、誰でもわかる。
つーか、ホンモノでなければ、そんなには乗れない。
ホンモノだけが生き残って、何かを訴え続けるのだ。
それって、たぶん、絶対、ドラポジなんかじゃない。
ポルシェたらしめている思想や信念だな。
それがブランドというものだろう。
たぶん、排気量や気筒数とかとは関係ない話なんだろう。
乗ればわかる。
乗り続ければわかる。
そして、それを失った時には、顧客は離れていくのだ。
ブランドは、カッコイーイニシャルやマークのことではない。
そこに表象される、思想や信念、それに基づき形にされる製品の品質が全てだ。
時代の移ろいの中で、新しい技術や、デザインが登場する。
それを、どう取り込んで、生かしていくのか。
何を捨て、何を取るのか。
何を残し、敢えて、何を取らないのか。
空冷から水冷へ、ガソリンからハイブリッドへ、ハイブリッドから電気へ。
ポルシェの駆動系は、変遷を続けている。
しかし、それはあくまでもポルシェのクルマだ。
しかも、そのクルマは、人間が操ることを前提に作られている。
アウディのように、あっけらかんとロボットにハンドルを委ねるようなまねはしない。
いや、わからんぞお?。
ポルシェだって、売れてなんぼの商売だからな。
うーん、でも、自動運転のポルシェに乗りたいだろうか?。
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