2018-08-03
浮沈子は、運転補助機能にケチを付けようというのではない(そう聞こえるけど?)。
メーカーとドライバーと社会にとって、どんな意味を持つ技術かをハッキリさせたいだけだ。
大衆車に適用することによる量産効果で単価が下がり、さらに広範囲に適用させることが可能になる。
ホンダのことだからな。
バイクにだって付けだすかもしれない。
本質的に不安定で、転倒の危険が常にある乗り物だからな。
補助機能の効果は、こっちの方が大きいかもしれない。
具体的な適用は、なかなか難しいかもしれないが、そこは技術の向上でカバーだ。
そこからのフィードバックが、四輪車の機能向上に資するかもしれない。
事故の防止、被害の軽減という錦の御旗に抗うことは誰もできない。
運転補助機能、大いに結構。
この道が、自動運転に続く道なのか、それとも単なる袋小路なのかは分からない。
自動車の定義を変えるかもしれない自動運転は、確かに画期的な技術だが、まだ実現には至っていない。
運転補助機能は、あくまで補助だから、限定免許とかになることはないだろう。
ドライバーは、当分の間、最終的に運転の責任を免れることはない。
中途半端な自動運転は、混乱を招くだけだ。
メーカーとしては、難しい対応を迫られることになる。
日産が提唱するように、完全な自動運転と、ドライバーによる運転を、同じ車で切り替えられるようにするという手もある。
実現は困難だろうが、一つの考え方ではある。
その場合でも、てんこ盛りの運転補助機能が付いていて、おさるの電車の運転手のように、クルマの指示でハンドルを切り、アクセルを踏むことになるんだろう。
いや、ひょっとすると、ハンドルやアクセルはダミーで、付いているだけかもしれないからな(そ、そんなあ!)。
まあいい。
完全自動運転がもたらす、お先真っ暗な未来。
事故なく、不幸な被害者を作らない、素晴らしい新世界だ。
誰もが幸せにカーライフをエンジョイできる。
ドアツードアの利便性と、電車の安全性を、パーソナルに実現できる。
だれもが、運転手付きのクルマに乗れるようになる(タクシー乗ればあ?)。
それが幸せなのかは分からない。
自ら移動するという自由と引き換えに、安全安心の生活を手に入れる。
運転補助機能は、そういう世界とは一線を画している。
この記事では、自動運転と併せて書いているが、それは似て非なるものだ。
技術的には、延長線上にあるのかもしれないが、実際に適用するためのハードルは高い。
衛星とリンクし、ネットワークを介した神の目を得なければ難しいかもしれない。
しかし、それもやがて可能になるに違いない。
21世紀だからな。
未来は、もう、足元にきているのだ・・・。
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